純文学好き。なろう小説も好き。
柚葉さんのブログもといツイートが面白かったので似た話題で書こうとしたら、なんかなろう小説も絡んできた。
おもしろいですねえ
— ハギワラシンジ$ブンゲイ実況中 (@hagiwarasinzi) 2020年1月29日
純文学が好き?
柚葉さんのいうとーり、純文学(現代文学)はわけわかんねえな?
改行もないし、何言ってるかわからんし、後から解説見て「そういうことだったのか!」と得心する手間が煩わしい。煩わしい大学主席卒業だ。解説見たらそれで満足しちゃうし。
僕の場合は古今東西の純文学が圧倒的にキャパオーバーだ。世の中の純文学は常に僕の想像を超えつつ、考えれば理解できるから、「なんで最初に理解できなかったんだろう」という思いも強い。
でも。
でも、僕は純文学現代文学が好き。
それは僕が書く側としての意識が強いからかも。
ここからちょっと抽象的な話かも
だってほら、小説って自由だから。そして解放に忠実だから。自分のペースで、ゆっくり何でも表現できる。倫理もタブーも無い。無いという思い込みを解放してもいいし、しなくてもいい。
僕たちは「解放しているのか、それとも解放されているのか」考えられる自由がある。少なくとも会社でドキュメント修正してるより楽しい。
僕は純文学書いてると「俺存在してるなぁーっ」と思えるのだ。すると「なんで存在してるのだァー?」とどんどん考えて、いつの間にかすんごい冒険してる心地になる。
冒険、自由、解放。
僕が心から望んでいるものだ。
それらは時代によって形を変える。そして、書き方も変わる。
なろう小説も好き?
で、なろう小説がなんで好きかっていうと。
人の自然な部分がとてもよく見えるからだ。
突然なのだが、僕は動物の補食シーンが好きだ。なんでかってーと、自然だからだ。動物は食べるときに、最も、うつくしくなる。食うために生きてるからだ。生きてる体は美しい。その瞬間にあらゆる機能美が牙を剥く。それを見てるとね、安心するんだなーっ。あっ、そうだよね。自然でいいんだよね…って。
ほら、我々という生き物はなかなか自然になれぬ。
しがらみとか?建前とか?イーアルファンキーウーロン茶とか?むつかしい。
だから僕は体を目一杯使った動物の自然を愛するし、人間の見下げ果てた欲望が牙を向く小説を愛してしまう。
自然だからなぁ。
なろう小説はほとんどが、腐ったマスカットの煮凝りのようなテーマが詰まってる。ここにはちょっと書けないね。
そして、それをこよなく愛する人がいる。
僕はそんな欲望の煮凝りを読んで、自分の穢い欲望に触れると、「よかった…自然だ…」と思ってしまう。う○こ眺めて、安心しないか?しないか。
つまり?
つまり、僕は小説において、どんな形であれ自由で解放的なものが好きだということ。そいつらは居場所と可能性と、あらゆる余地を与えてくれる。だから僕は好きだ。