「分からなくていい優しさ」が欲しいなら、本を読み創作をしよう。
私は、まぁ、ある程度の人よりか読書が好きだ。
学生時代は教師に少しは目をかけられるくらいは読んでいた。国語の授業も好きだった。授業で取り扱わない、別ページの小説ばっかり読んでた。よくいるやつだ。
ただ私はそこに書いてある内容を理解していたとは言えない。
国語の点数もあんまよくなかった。平均点より2,3点上なくらい。
私は文芸部の部長をしていたことがあったけど、全世代の中で一番国語ができなかった。
私には不思議だった。
なんで私は会話の機微が分からなくて、小説に書かれたことを理解できないのに、こんなに本が好きなんだろう。いや、ほんとは好きなのかもよく分からない。
なんでだろう。
なんでだろうね。
今でもよく分からない。すごくありふれた理由なのかもしれないけど、思い当たらない。分からない。
何もかも分からないことばかりだ。
しかし世の中にはなんでも分かるやつがいる。少なくとも自分より。
そんな相手を無条件で尊敬してしまうのだが、同時に自分を貶めて卑屈になる。
それを客観して理解できるようになったのが最近だ。それは良くないことだし、おろかだ。
話がそれた。
特に現時点で表題に対する答えはない。
相も変わらず世の中は理解不能で、私のキャパシティを超えてくる。分からないことしかない。
もしかしたら小説は「分からない優しさが許される」から安心するのかもしれない。分からなくても誰にも責められず、ゆっくりと想像の余地を与えてくれる。自分の部屋のように自由だ。
もしあなたが、世の中が理解不能で責め立てられていると感じるなら、本を読み創作するといいかもしれない。そこではあなたの余地を誰も邪魔しない。焦らせる人も、嗤う人もいない。一人だが、独りじゃない。あなたは分からないと感じるとき、既に自由だ。